この度は『TEAM 瑛大-えいた-』のホームページをご覧いただきありがとうございます。
2020年9月6日福島県会津若松市の猪苗代湖で起きた事故についての正確な情報発信や情報提供を呼び掛ける目的で開設を致しました。
今回は瑛大くんの母・舞子さんが事故後に記した手記の一部を掲載したいと思います。
子を失った母としての心情が赤裸々に書かれています。
決して悲観的になっているわけではなく、瑛大くんの死を無駄にしないために、必死に向き合い、乗り越える為の覚悟がどれほどのものか。
当事者としての心情を少しでも感じていただけたら幸いです。
<事故後>
手術から目を覚ました時のことは覚えていないが、病院に運ばれてくるまでの記憶はあったので、事故のこと、足のこと、瑛大のことはなんとなくわかってはいた。
それでも、もしかしたらという期待はしていた。
体に力が入らず、少し腕を動かすだけでも疲れる。
足は全く動かず、左足は残っていたが創外固定されていてどんな状態なのだろうと思った。
右足は指先の感覚があったので大丈夫だったのかな?と思い確認すると膝下すぐからなくなっていた。“やっぱりないんだ、、”と実感した。
こういう時、普通ならどんな反応をするのだろう。
涙も出なければ、悲しいとも思わなかった。
私の頭の中は瑛大のことだけ。
瑛大を失ったことに比べたら足を失ったことがちっぽけに思えた。
瑛大の捜索が続いているということを知り、暗くて寒くて冷たいところで1人ぼっちなのかと思うと今すぐ瑛大の元へ逝ってあげたいと思った。
なんで瑛大なのか。どうして助けてあげられなかったのか。
あの時、大きな声で逃げろと叫べば間に合ったのか。
手を伸ばせば瑛大を助けられたんじゃないか。
大けがしてでも生きてさえいてくれれば。
事故後せめて瑛大の傍に行って抱きしめてあげたかった。
声も出ず、体も動かなかった自分が情けなくて、申し訳なくてしょうがない。
事故から2日後、主人と息子(兄)と面会。
瑛大が見つかったと聞いて涙が溢れ出た。
体の一部と言っていたので全て沈んでしまったわけではないと初めてわかったが、一部と聞いて衝撃も受けた。
しばらく放心状態になっていたが急に色々な思いが込み上げてきて、体を震わせ声に出して泣き始めると心配した看護師さんが優しく肩をポンポンとしてくれていた。
「瑛大が見つかってよかった」と何度も言った。
事故から数日は眠れない日々が続いた。
目を閉じると壁一面に怖い顔のようなものが出てくる。
夢の中で叫んでいたり、30分おきに目が覚める日々。
そして朝目を覚ますと事故のことは夢だったのか?と思うが病院の天井が目に入り、機材の音が聞こえてきて一気に現実に引き戻される。
時間が戻ってくれたらいいのに。と何度も思った。
4日ぶりに水を飲んだ時はとても幸せと思った。
それと同時に幸せと思っていいのだろうかって考える。
常に瑛大に対してごめんねという気持ちと会いたいという気持ちが頭から離れない。
考えても考えてもどうにもならないのはわかっていても会いたい。触りたい。
声が聞きたい。一度でいいから話したい。
そんなことばかり考えてる。
瑛大はよく笑う子でいつもニコニコしていた。
なのに思い出すのは瑛大の可愛い笑顔ではなく、事故直前の驚いた表情と事故後の姿。
その度に胸がキューっと苦しくなって泣き叫んで暴れたくなる。
こんなに辛いなら死んでしまいたいと思った。
この先この気持ちを抱えて生きていくなんて無理と思った。
しばらくそんなことばかり考える日々だった。でもそれは間違ってると気づいた。
命を繋いでくれた先生方はじめ優しく明るく声をかけてくれる看護師さんたち。
心配して連絡をくれた友達。
そして何より支えになったのが家族のみんな。
とにかく息子(兄)が無事だったのが大きい。
いつものように明るく元気いっぱいな動画をみて、早く息子(兄)に会いたいと思った。
事故直後に生きてる息子(兄)をみて残して死ねないと思い、絶対生きると強く思ったんだということを思い出した。
子を失う辛さは私がよくわかっているはずなのに同じ思いを自分の母親にさせてはいけないとも思った。
色々なことを思い出した。
そして主人も私と同じように辛いうえに、遊びに連れてきたことに責任を感じている。
瑛大に対してはもちろん私の足に対して、自分だけ無傷だから尚更悔やんでいる。
1人では無理なことも2人なら乗り越えられると信じて、とにかく今は自宅に帰るため治療に専念しようと思い、精神を安定させるため泣くのは帰ってからにしようと決めた。
それでも瑛大は常に私の頭の中に出てくるので、かき消すようにして過ごしていた。
その後も何度か手術を行い、左足も失ったが気持ちは前向きに努めた。
少しづつ体調も回復していき一般病棟へ移ることになった。
車椅子に乗れるようになり、事故後初めて自分の全身を鏡で見たときにとてもショックを受けた。
ベッド上で足がないのを見るのとは全く違った。
“本当に足がないんだ、、”と思い見た目の違和感がものすごくて最初は目を伏せてしまっていたがすぐに慣れた。
早く帰りたいと毎日思っていたが、退院が決まると急に不安になった。
瑛大と過ごした家に帰るということが怖く感じた。
瑛大も無事でみんなが待っているいつもの明るい家を何度も想像した。
瑛大さえ生きてくれていれば何も辛いことなんてなかったのに。
それでも生きるためには前を向かないといけない。
常に前向きに生きてきたが、こんな時まで前を向かないといけないのかなとも思った。
ただそれが家族のため、自分のため、そして瑛大のためになるのであれば頑張れる気がする。
瑛大を思い続けるためにも、しっかり瑛大と向き合わなきゃと思った。
そしてちょうど事故から3か月、瑛大の月命日の日に退院した。